ペリアンをotozureて、いざ鎌倉
2011/12/17 @鎌倉
本日は「東京ごはん映画祭」のFacebookサイトで知ったイベントに参加の為、久しぶりに鎌倉へ。
ついでに神奈川県立近代美術館に。
久しぶりの鎌倉。神奈川の誇り高き土地です。
小町通は少しずつ変わり、日暮里の夕焼けだんだんの様なプレハブ?の路面店が造られていました。でも、小学生の頃に毎年行った和紙のお店などは変わらずで嬉しいです。
さて、鶴岡八幡宮に到着。今日も観光客の人出あり、賑やか。鳥居を過ぎて玉砂利の参道の奥は鎌倉山に囲まれた八幡様、左には敷地内に神奈川県立近代美術館があります。
池の上に建っているかのような設計は板倉準三。公立の近代美術館に感じない当時の斬新なデザイン。
展示は、ペリアンの椅子やテーブルや、それに使われたクッション生地や図面、また、日本に来日する為の書簡や推薦状、板倉・柳との手紙など貴重な物が展示され、非常に興味深いものばかりでした。
彼女は良い素材を見つけてはプロの作家に依頼して作成し(生地ならば龍村織物に、焼物は河井寛次郎になど)、多方面に素敵なものを残したようです。
その時代の良き人々との縁が全て、彼女の作品に繋がったのでしょう。本当にどれも無理の無い、日常に使うものであるからこそ素敵でした。
東北の伝統文化を活かす点は、今年東京ミッドタウン21_21で展示された三宅一生さんが引き継いでいるのかとも思いました。
シャルロット・ペリアンは、、、
ル・コルビュジエのアトリエに入所後、ル・コルビュジエと ピエール・ジャンヌレとともに「住宅インテリア設備」として、鉄やアルミニウム、ガラスといった新しい素材を用いた。
1940年にル・コルビュジエのアトリエで同僚だった坂倉準三や柳宗理の推薦によって、商工省の「輸出工芸指導顧問」として初来日。海外向けの工芸品の改良・指導を任され、柳宗理とともに日本全国をまわり、仙台の工芸指導所では若い研究員たちに、素材の扱いやデザイン手法など、ヨーロッパのモダン・デザインの実際を示しました。
日本滞在中に「民藝」運動の推進者である柳宗悦や河井寬次郎らと交友したペリアンは、「民藝」の理念に触れ、また地方に残る伝統的な意匠や素材、技術を同時代の感覚と結びつける試みをしました。1941年の「ペリアン女史 日本創作品展覧会 2601年住宅内部装備への示唆」( 通称「選擇、傳統、創造展」)を 発表。彼女が提案した竹や木を素材とした合理的かつ現代的なデザインは、当時の日本のデザイン界に強く深い示唆を与えました。それは戦後のデザインにも鮮明な流れとなって残り、今なお絶えず更新されながら脈々とつづいています。
、、、というように、戦前に日本との交流をし、著名なデザイナーとの結びつきから戦争を越えても日本とのつながりは深くあり、戦後、偶然にも御主人がエールフランスの日本支社に転勤となり、2年間在日しマスマス日本とフランスの文化の架け橋となったのでした。
この展示で、私はますます、この時代の民藝で活躍した人々が好きになりました。そしてどんな時代よりも魅力的に思います。
戦争が開戦されなかったら、もっともっと日本文化を活かす事が出来たのかと思うと、本当に残念でならず。。。戦争って、、、
曲線が可愛らしいですねぇ。
旧東京都庁知事室には上の△テーブルや間仕切りの棚など、ペリアンの家具が設置されていた写真が展示されていましたが、新都庁へ移転の際に処分されたのか、所在が不明というのが謎でした。。。都の職員の家にあったりして?!
90歳になったペリアンは仏万博の日本館での最後の作品は「茶室」でした。
日本との関係した集大成と言っても良いでしょう。
1Fの吹き抜けスペースにも
池の水面が1Fの天井に映って美しい☆
シャルロット・ペリアンのデザインした椅子が置かれ、そこに座りながら彼女のインタビュー映像を拝見できます。しかし、1Fは吹き抜けになり、囲いが無いので寒い〜f^_^;)
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